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堀茂介
(※1 慶長四年七月二十九日に原田左馬介の菩提を弔う)

我妻九郎五郎

(※2 正月十一日、〈原田さまの助御てつほう〉として玉五十)

峰崎太郎助
(※2 正月十三日、〈原田さま助〉として玉五十)

片倉勘八
(※3 勇士。原田左馬助宗時の臣、天正十三年五月二日會津關柴の役、宗時挺身槍を揮ひて進む、勘八同僚蘆立傳三郎と共に馬を扣へ諫めて曰く、敵は烏合の衆のみ、何ぞ君を煩すに足らんや、之を拒ぐに吾等二人にして足る、君速かに去れと、二人大に呼んで奮撃す、宗時間を得て走り關の驛に至る、勘八刀尖に敵首二級を貫きて帰り献ず、宗時傳三郎を問ふ、對へて曰く傳三郎奮闘十餘人を斃して戦死すと、政宗公聞きて二人の勇を稱し、勘八に佩刀を賜ひ、厚く傳三郎の後を存恤せしむ。)

蘆立傳三郎
(※3)


※1 高野山観音院過去帳(甲本)
※2 天正十七年正月伊達氏家臣等献上物日記/玉日記
※3 仙臺人名大辞典



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◎文禄三年原田左馬介廿九歳、於對馬病死、公哀傷の餘六字を句の上に置て御詠(眞山記)

原田左馬介は宗時で、天正十八年大崎葛西の一揆の時貞山君之れを煽動したとの嫌疑あるや、君命で浅野弾正に委曲申開きし 又、文禄征韓役に方りては、浅野弾正の問に応じて敵情を報告旁意見を開陳(眞山記)した貞山君の近臣。軍法を犯して敵を攻めて弾正を怒らせた(桑折次左衛門覚書)信任深い元気者だつたが、文禄二年病気ゆえ帰船を命ぜられ(七月廿一日付富塚江宛)、對馬で病没する。一説釜山で死んだのと云ふ。首書に三年と有るは二年の筈だ。
馬上蠣崎神社俗に後藤墓 本村足軽町五十九番地佐藤吉三郎宅地内 小祠堂にして仙台市良覚院丁馬上蠣崎神社俗に後藤墓の分霊を祀れるなり今其の由来を諸ぬれば後藤家の百姓に新蔵なる者あり吉三郎の祖先馬を愛好すること酒色より甚し故に自然に馬匹を鑑識するの明にも富めり新蔵飼育する所の馬に毛色漆黒の如く澤々として身長四尺八七寸のものあり南部領元田の産にして稀代の駿足たり放そては星馳電掣空を駈けて向ふ所なく奔騰能く万里の風を切るの逸気あるも飼へば猶ほ羊羔の如く温良優順人と心緒を一にして、その為すところに従ひ敢て其の能に矜るなく洵に名馬の本領を具備したり、事領主後藤家の聞くところとなり後藤家は之を藩祖貞山公に献ず公大に喜び献者の名と馬の毛色とに因みて後藤黒と命名して寵愛最も渥し公が後藤黒の駿足に鐡鞭を加へて戦陣に臨むこと数十回馬首の向ふ處戦へば必ず勝ち攻むれば必ず取る公の英名は赫灼として輝き威風堂々四隣を壓したりき、されど驍勇無比の後藤黒の身も歳月は放なたず齢を重ぬると共に龍骨漸く痩瘠を表はすに至る慶長十九年公が大坂陣に臨むに際し厩舎に居残すべき後藤黒を顧みて今度は留守養老の然るべきを喩しけるが後藤黒は公が颯爽たる出陣の英姿を凝視して今一度従軍を嘆願するの眞状が見え其の心情眞に愍察に餘りありければ公には種々に慰めて別を告げて進軍の程に上られたり然るに其の夜後藤黒には厩舎を脱走して天主台数十丈の断崖より墜落して斃る一説に後藤黒を飼育する厩の別当は其の飼料を私して十分に与へず遂に後藤黒をして疲駿たるに至らしむ後藤黒憤慨に堪へず厩舎を跳脱して別当を噛み殺し己も亦斃るるに至れりと是れ素より徒らに槽攊に伏して君の食禄を貪るを恥づるの致すところにして単に一畜類の所為としてのみ思ふべからず。公の凱旋せらるるや同所に立派なる墓碑を建てて懇に其の霊を弔ひ且つ後藤黒の厩舎には常に注連縄を張りて保存す殊に後藤家に於ては毎年三月十五日には祭儀係を派して神霊を祀るを例とす明治四年師団の設置あるや後藤黒の墓は現在の地に移し祀ると同時に馬上蠣崎神社と改稱す此移轉に際し祠官櫻田如水氏より後藤家に対して其の霊を奉還すべきを申し来らる是に於て当時の主君充康君保吉吉三郎の養祖父を従ひて上仙し其の霊を捧持して帰り佐藤家をして祀らしめたるは即ち是の社なり、仙台市良覚院丁の同神社の祭典は毎年三月十五日と十月十五日と春秋二回に行ひ之を信仰する子供は恐るべき馬脾風病ヂフテリヤに罹るを免るるを以て子を思ふ幾多の親々は競ふて参詣し神前に捧げたる胡桃を神殿の階段より轉げ落して拾て取り之を馬脾風の霊薬として各自の家に蔵し置くと云ふ我が村民及び近郷の人々も同病の流行を聞くや足軽町の神社に詣て胡桃を捧げて祈念し其の胡桃を服用せしめて同病を予防し若くは平癒を祈る者多し。
幼名 大膳亮
采禄二千石
宗景長子也
母は白石若狭娘也
職宿老 御一族


一旌旗紋石畳、帷幕紋開き扇十本骨 馬印金地開き扇、
  指小旗打懸けしない白黒地なし横筋小馬印紅地江開き扇十本骨

相馬義胤より之書曰
態啓之候 先般清顕就取合、御当へ為徹書申合候、向後旁以無隔心可申通候、然は旧干戈究而於御当方も可為御苦労候歟、一途御意見之外不可有之候、抑如其唱候者、政宗被移御代之由、目出候、仍而仕折節弓十張進之候、補一義斗候、毎事彼口上申含候
恐々謹言
        霜月七日   平義胤判
  謹上
     浜田大膳亮殿

一天正九年四月朔日会津盛隆之書有り、此書不伝

一去し頃おもハさるに戦いてゝ、伊藤肥前守命を君に奉し日、その程甘釣斎ハ
  常陸使にて、互の憤をやハらけ奉らんため、伊達の陣に日を送る、安積山の
  やまの井の水手向に添て発句をなと各すゝめ給ひしを、あさくハおもハぬことなから、
  事おほく紛てうち過ぬれハ、そのかはりに弔つかうまつれとありけるを、たびたび
  すま(さカ)ひけれとも しゐてもよふさるれハ、さしあたりてのむし(つカ)かしさを
  のかれんとて、後の嘲をわすれ侍りぬ

消かへりをけハあたなる露もなし          (兼如)猪代
草の花つむ、道の朝夕             (浜田伊豆)景隆
虫の音に、あかぬ名残の野を分て        (甘釣齋)玄湖
日の光を、片敷のそて                      長安
真木の戸や 涼しきままに さきさらん      (兼如男)怒仙
軒端の山に あめ過るくれ        (大和田忠清)筑後守
立ならふ、枝葉つたふ 風のおと     志賀左衛門(成清)
やとりさためす 鳥や鳴らん         (志賀右衛門)武清

一政宗君天正十九年六月賀美郡宮崎城主笠原民部御追罸之軍将ヲ命セラレ、
  宮崎江発向ス、城ヨリ出ル敵ヲ逐テ城門ニ至り、鉄砲ヲ放テ攻ムレトモ城堅固ニシテ不屈、
 景隆軍兵ニ下知シテ溝ノ水ヲ落サント自カラ城頭ニ下ル、敵是ヲフセイテ強戦ス、
  先軍破テ景隆深手負、従卒扶テ陣屋ニ帰、六月廿四日行年三十八ニテツヒニ卒ス、
  死骸城ヨリ一里余リ隔、賀美郡柳沢村桧葉野ニ葬、其外戦死之者成田惣八郎、
  松木伊勢、前田河上総、峯左近、伊場野惣八郎、塩森長門 同朋小出小阿弥、
  足軽百人余討死、英雄院殿松月(興徳院雄岳)景隆居士
[田村清顕の死と、その奇異]
 奥陽三春の住田村右京大夫清顕は、米沢左京大夫政宗の舅にて、佐竹・二階堂より度々攻動すといへども、政宗後詰をすれば田村の城堅個なり。去程に清顕武威益々盛んにして、或時は伊達家に加勢し、或ときは伊達家に救はれ、年月を送りける。誠にかかる乱世に至て一城を持つに其の危き事、風前の燈の如し。人間纔五十年にして、蝸牛の角の上に争ふごとくはかなき世の有様なり。されば人の心も時に従ふならひにて、今の世の人のいふは、「戦場に出て討死するをば、武士の本望なり。」と是をほめ、病死・頓死の者をば、「あたら命を敵の為に死せざるこそ本意なけれ。」と若者どもの口遊びにもいひけり。
 この清顕、日来の物語にも、「いかに大将なりとも敵に仕詰られて腹を切らんは、無下に口をしき次第なり。一騎なりとも敵を亡して討死せん事こそ、武林の誉ならん。」といはれける。終に一生恙なく、天正十四年の暮つかた頓死せられける。誠に文武ともに兼たる人とかや。其上、いと殊勝成る事ども侍りけり。後世をもいのらんためにとて、我身手跡もよければ大般若六百巻を自ら書きて、田村の城辺森山の大元明王の内殿にぞ籠置れける。別当泰平寺、一生武運長久をも祈けれども、是は後生の為とてせられけるが、幾程も無く身まかりけり。内室を始め一門・郎従愁嘆の涙かはかず。扨しも有べきならねば野辺の送り念頃にぞ、東岱前後の烟、北郊新丘の露と消にし跡も遠ざかりけり。
 扨も其頃不思議なる事の侍るなれ。清顕卒して日数漸く三七日も過てん頃より、大元明王の社に変化の者住みて、日暮ぬれば人の往来もなしといふ事の有りしが、彼は清顕の亡魂なりとぞ囁きける。又此程に大元に近き里の土民の妻の、世にも稀なる嫉妬ふかき女ありけるが、我が夫に密通有りと思ふ女、隣の里に有けるを嫉みて、爰かしこ神社へ夜毎に丑の刻参詣し、神木に釘(針)を打つ事、忍ぶとすれど人目に余りぬれば、「彼女には角生えたり。蛇に成かかりし。」などと沙汰せし程に、「大元明王の化物は此女にてぞ有りなん。」などといふもあり。
 去程に、其年もくれて天正十五年陬月の始めつかた、彼女、明王の社に化物の住むとはかねて聞しかども、夫をも恐れざるにや、又人のいふを偽なるべしと思ひけるにや。丑の刻ばかりに我屋を忍び出で、件の社に参りけるが、翌日みれば化物の所為と見えて引裂れ、死しける屍ぞ残りける。是よりして、弥々明王の社は昼も行通ふもの無りけり。「是は必定清顕の亡魂悪鬼に成し。」と囁くにぞ、別当の法師も是を沙汰せば、田村殿の家の恥辱とも成りなんと思ひ、閉口して有ければ、諸人も同じ思ひにて其の事を隠密にぞなしにける。かかりしかば田村の後室も知り給はず、一門・家老も聞く事もなく、只下にてひそめくばかりなり。

[原田左馬介の亡霊退治]
 其頃政宗の臣原田左馬介、いささか所用有て、忍びて三春に来りしが、不肖者の体にて一僕を具し、大元の町に一宿し、此の物語を囁くものあれば不思議に思ひ、其者を招き、是を聞くに、しかじかのやうすなり。左馬介是を聞きて「かかる事も有るもの哉。兎にかく田村殿の亡魂といふは主君政宗へ聞えてもよろしからず。弥々北の方聞給はば、左こそ物うく思ひ給ふらめ。つらつら是を思ふに、亡魂といふ物にては有るべからず。人を引裂く故は、むかし渡辺の綱に腕をきられし茨木童子などといふ者の類なるべし。我、渡辺ほどの武勇こそなからめ。目に見え、形ある物をば遁すべからず。今宵彼所に至り、切てくれん者を。」と思ひければ、さらぬ体にて臥けるが、程なく丑の刻ばかりになれば密に起上り、枕元に置し鎖帷子を着し、同じく手細を以て鉢巻し、火打・付木を懐中し、明王の社にぞ行ける。
 元来左馬介極めて心剛なる若者にて、少しも恐るる気色なく、僕をもつれず只一人、左右に心を配り、社の椽の上につと上れば、鬼といふものにや、真白に出立て五、六人傍に臥し、高鼾してぞ有ける。左馬介是を見て「是化物成るべし。」と立寄て伺ふに、夜中なれば形はしかと見えざれども、丈け五、六尺に過ず、人間に替る事もなし。推量するに住家定めなき強盗どもの、此社を住所にせんと変化の真似して、諸人をおびやかすにてぞあらん。何さま一々切て捨んと思ひ、椽の板を、とうと踏鳴し「いかに化物等、己等誅罰の為、原田左馬介が来るぞ、早々起上れ。」と呼はりければ、渠原能く寝入たる上、思ひよらざる事なれば「心得たり。」といひけれども、太刀を抜く隙もなく、畳懸て切付られ、何かはたまるべき、六人ながら同じ所に死にけり。左馬介猶も油断なく、手足の動く程は刺通し刺通し、其後心静に懐中より火打を取り出し、火を燈しみれば疑ひもなき人間なり。原田、「仕済したり。」と思ひ、太刀を鞘に納めて立帰りけるが、是体の事を高名顔に人に語るべき事ならずと思へば、其の沙汰もせざりけるが、夜明て諸人是を見て、「何者の所為ならん。」と取々の評判なり。後に其夜、原田忍て一宿せし事の聞えければ、「扨は原田がわざ成るべし。」と皆人思ひけるなり。
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