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馬上蠣崎神社俗に後藤墓 本村足軽町五十九番地佐藤吉三郎宅地内 小祠堂にして仙台市良覚院丁馬上蠣崎神社俗に後藤墓の分霊を祀れるなり今其の由来を諸ぬれば後藤家の百姓に新蔵なる者あり吉三郎の祖先馬を愛好すること酒色より甚し故に自然に馬匹を鑑識するの明にも富めり新蔵飼育する所の馬に毛色漆黒の如く澤々として身長四尺八七寸のものあり南部領元田の産にして稀代の駿足たり放そては星馳電掣空を駈けて向ふ所なく奔騰能く万里の風を切るの逸気あるも飼へば猶ほ羊羔の如く温良優順人と心緒を一にして、その為すところに従ひ敢て其の能に矜るなく洵に名馬の本領を具備したり、事領主後藤家の聞くところとなり後藤家は之を藩祖貞山公に献ず公大に喜び献者の名と馬の毛色とに因みて後藤黒と命名して寵愛最も渥し公が後藤黒の駿足に鐡鞭を加へて戦陣に臨むこと数十回馬首の向ふ處戦へば必ず勝ち攻むれば必ず取る公の英名は赫灼として輝き威風堂々四隣を壓したりき、されど驍勇無比の後藤黒の身も歳月は放なたず齢を重ぬると共に龍骨漸く痩瘠を表はすに至る慶長十九年公が大坂陣に臨むに際し厩舎に居残すべき後藤黒を顧みて今度は留守養老の然るべきを喩しけるが後藤黒は公が颯爽たる出陣の英姿を凝視して今一度従軍を嘆願するの眞状が見え其の心情眞に愍察に餘りありければ公には種々に慰めて別を告げて進軍の程に上られたり然るに其の夜後藤黒には厩舎を脱走して天主台数十丈の断崖より墜落して斃る一説に後藤黒を飼育する厩の別当は其の飼料を私して十分に与へず遂に後藤黒をして疲駿たるに至らしむ後藤黒憤慨に堪へず厩舎を跳脱して別当を噛み殺し己も亦斃るるに至れりと是れ素より徒らに槽攊に伏して君の食禄を貪るを恥づるの致すところにして単に一畜類の所為としてのみ思ふべからず。公の凱旋せらるるや同所に立派なる墓碑を建てて懇に其の霊を弔ひ且つ後藤黒の厩舎には常に注連縄を張りて保存す殊に後藤家に於ては毎年三月十五日には祭儀係を派して神霊を祀るを例とす明治四年師団の設置あるや後藤黒の墓は現在の地に移し祀ると同時に馬上蠣崎神社と改稱す此移轉に際し祠官櫻田如水氏より後藤家に対して其の霊を奉還すべきを申し来らる是に於て当時の主君充康君保吉吉三郎の養祖父を従ひて上仙し其の霊を捧持して帰り佐藤家をして祀らしめたるは即ち是の社なり、仙台市良覚院丁の同神社の祭典は毎年三月十五日と十月十五日と春秋二回に行ひ之を信仰する子供は恐るべき馬脾風病ヂフテリヤに罹るを免るるを以て子を思ふ幾多の親々は競ふて参詣し神前に捧げたる胡桃を神殿の階段より轉げ落して拾て取り之を馬脾風の霊薬として各自の家に蔵し置くと云ふ我が村民及び近郷の人々も同病の流行を聞くや足軽町の神社に詣て胡桃を捧げて祈念し其の胡桃を服用せしめて同病を予防し若くは平癒を祈る者多し。
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本紙第四頁に掲げたる寫眞版は我が三百年の太平を開きたる黄門政宗公の御親筆を模寫せるものにて是が本書は遠田郡不動堂の舊館主後藤氏の鼻祖孫兵衛氏が或時の戦ひに疲労の餘り陣中に仮睡し居りし折しも政宗公には其の座に入り来り此のさまを見て有合ふ筆取り孫兵衛氏の着し居たる白練絹の鎧下着の膝の邊りへさらさらと古歌を戯書されたるものなり其の鎧下着は長四尺三寸五分、袖丈一尺、袖口五寸、襟幅五寸にして所々に斑点を生じ少しく煤色を帯びたるも今尚ほ同家に傳はり居れりと尚ほ同寫眞版は本紙第三頁に組入るべきを印刷所の不注意より前後したるは読者諸君に対し深く謝する所なり。

(4ページに写真あり。)

いかなる事かおもひけん
 ふるき事かきつけ侍ぬ

   わか恋はみ山かくれの
   くさなれやしけさ
   まされとしる人のなき

    いとせめて
      恋しき時は
       むはたまの
    よるのころもを
      かへしてそぬる


※類似記事
仙台士鑑|横臥せる勇士の『具足下』に古歌を書して之を戒む
不動堂村誌|領主 後藤家|近元
福島の戦 公勇臣十人を選ひ殊更に母衣を掛くることを許す十人、後藤孫兵衛信康、黒木肥前宗元、石川彌平実光、氏家新兵衛兼次、川嶋豊前宗泰、一迫伊豆高実、守屋伊豆俊重、遠藤但馬、金森隠岐、今泉丹波、謂ゆる『伊達十騎母衣』なる者、母衣の色、紺、獨り孫兵衛、黄母衣を許さる世に『後藤の黄母衣』又は『黄の後藤』と称す蓋し異數なり
公夙に會津に志あり天正十三年五月初めて兵を出して之を征す綫に檜原を披く六月塞を檜原に築き後藤孫兵衛信康をして之を守らしむ令を下して濫りに兵の塞外に出つるを禁し且つ孫兵衛をして『仕置』を司らしむ孫兵衛、檜原に『城番』たると五年 公屢々書を贈り使を遣して警戒を厳にせしむ曰く晝夜用心すへし曰く用事あらは日夜の嫌なく急使を発して報告すへし曰く万一、倦厭逃亡する者もあらは處するに厳刑を以てせよ曰く『田村なとにては先年二本松(畠山義継)塩松(大内備前)敵なりし砌は洞中(闔藩)の輩、打績、五六箇年警固せしとあり』云々天正十七年會津 公帰す孫兵衛乃ち任を全ふして還る蓋し檜原は米沢の背後にして會津に入るの関門たり故に孫兵衛をして守らしむるなり孫兵衛深沈にし膽量あり忠誠比なし屢々 公か爲めら守城の任を盡くし未た甞て失はす 公か信頼する所たり

尚武子曰く檜原の地勢、攻勢を以て言へは會津の敵を監視して進入の梯階と爲すへく守勢を以て言へは 公四方を奔走す米沢の背後を捍衛すへし是れ 公孫兵衛をして檜原を守らしめし所以なり而して 公遂に會津を略す孫兵衛赫々の功なしと雖も背面防御の功亦た大なりと謂ふへし
後藤孫兵衛、純忠にして偉度あり 公か愛する所たり 陽徳院夫人亦た之を重んす 夫人甞て白綾の裲襠を賜ふ裲襠、孫兵衛か子孫、猶ほ之を蔵す狩野風の墨畫にて近江八景を畫ける者、高尚謂はん方なし按するに孫兵衛 公か爲めに檜原を守りて會津の敵を監視する前後五年 公數々書を裁して之を問ふ裲襠賜て以て之か労を慰する者非か
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