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初め三四郎後上野と改む肥前信康君の子なり慶長六年九月貞山公に江戸に扈して權大納言秀忠公に謁し饌を賜ふ東藩史稿後藤世家元和二年家禄五百石に更に増禄五百石を賜はり千石に至り寛永二十年更に五百石の加増千五百石に至る元和六年距今三百年前江刺郡三照村より本村に移住す實に本村開■中興の主なり同年幕府江戸城大手脇石垣修築を仙台に命ず東藩史稿元和六年庚申二月江戸城壁修築の命あり十月に至て成る君普請奉行たり寛永十六年より正保元年まで越前守要山公伊達第十九世世嗣御年寄役命せられ五年間江戸に定詰す此の時越前守より御下着へ古歌御自筆のものを賜ふ其の歌に曰いかなる事かおもひけんふるき事かきつけ侍りぬ「我恋はみ山かくれの草なれやしけさまされとしる人のなき」「いとせめて恋しき時はうは玉の夜の衣をかへしてそぬる」正保元年四月六日江戸に於て卒す藤岳院殿一英正心居士と諡す月州山に帰葬す。越前守より拝領の御下着につき仙台士鑑には左の事実を掲げある、如何なる事実の相違にや(横臥せる勇士の『具足下』に古歌を書して之を戒む某の戦夜公自ら出てゝ諸営を巡察す偶々茂庭石見盡間の戦闘に疲れ白綾の『具足下』を纏ひて火のそはに横臥し鼾聲雷の如し公視て問はす「矢立」取り出し莞爾として古歌二首を『具足下』の腰のあたりに書きつけて去る歌には前出に同じ而して『具足下』猶ほ後藤氏に蔵す公か筆勢雄抜飛動の勢あり蓋と陣間劔鉾の気然らしむるなりとある)


※類似記事
仙台士鑑|横臥せる勇士の『具足下』に古歌を書して之を戒む
仙臺新報 第四十九号|政宗公の御親筆
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本紙第四頁に掲げたる寫眞版は我が三百年の太平を開きたる黄門政宗公の御親筆を模寫せるものにて是が本書は遠田郡不動堂の舊館主後藤氏の鼻祖孫兵衛氏が或時の戦ひに疲労の餘り陣中に仮睡し居りし折しも政宗公には其の座に入り来り此のさまを見て有合ふ筆取り孫兵衛氏の着し居たる白練絹の鎧下着の膝の邊りへさらさらと古歌を戯書されたるものなり其の鎧下着は長四尺三寸五分、袖丈一尺、袖口五寸、襟幅五寸にして所々に斑点を生じ少しく煤色を帯びたるも今尚ほ同家に傳はり居れりと尚ほ同寫眞版は本紙第三頁に組入るべきを印刷所の不注意より前後したるは読者諸君に対し深く謝する所なり。

(4ページに写真あり。)

いかなる事かおもひけん
 ふるき事かきつけ侍ぬ

   わか恋はみ山かくれの
   くさなれやしけさ
   まされとしる人のなき

    いとせめて
      恋しき時は
       むはたまの
    よるのころもを
      かへしてそぬる


※類似記事
仙台士鑑|横臥せる勇士の『具足下』に古歌を書して之を戒む
不動堂村誌|領主 後藤家|近元
天正十六年六月佐竹義重、葦名義広、岩城常隆、二階堂義親、其兵四千餘騎を率ひ出てて安積を侵す時に 公兵を四方に出す纔に數百騎を留むるのみ屈せす進んて之に當る窪田に相持するもの月餘、七月四日、敵将新国上総、我か陣前を過く伊達成実、片倉小十郎と議し其の庶兄片倉藤左衛門をして之を撃たしむ藤左衛門勝に乗して進み遂に敵の圍む所と爲る成実、小十郎等馳せて之を救ふ義重、義広兵を放て大に戦ふ 公又た出てて戦を督す我兵奮戦激闘、怒涛の空を春擣するか如し而して兵寡にして乱撃、時を移す我に利あらさらんとす伊藤肥前重信之を見、速に「武別(ものわかれ)」せしめとす而して我兵一歩を退かす是に於て重信、快馬敵陣を乗割り機を見て兵を収めんとす■毛の馬に打乗り五輪の塔の旗推したてて 公か前を過く威風凛々、毛髪逆に指すの慨あり 公壮とし重信を呼んで曰く我れ兵、寡にして地利あらす進退宜きを得さるへからすと重信、鞍の前輪を押へ一礼して曰く『今日は討死と存し定む心安く思召さるへし』とて打通る 公目送して曰く『戦の法にて左様思はねは勝利は得られぬ者哉』と重信馬を飛はして猛然、敵軍の中に割て入る敵皆な披靡す重信、突て敵背に出つ復た馬首を返へして蹂躙す是に於て敵、鋒を叢めて之を突く重信遂に之に死す我兵力戦、大に敵を破る戦に先つ一日 公老臣を召し宴を賜へて戦を議す重信意気昂然、謂て曰く佐竹葦名の兵、衆と雖も烏合の徒のみ重信一人の力能く之を蹶散するに足ると 公壮とし酒の肴に親ら蟹を取て重信に賜ふ重信辞す且つ曰く蟹は横走の物、臣陣に臨む直進す横走せすと一座歎賞、果して其言の如し此日重信、甲を擐(←?)し「忍の緒」を絶つ是より先き重信の指物、阿吽の梵字を用ゆ此に至り 公謂ひ五輪の塔に改む皆生還を期せさるなり重信死する年時五十有二敵其の忠勇に感し重信か首を指物に包み其屍に甲冑を添ひ人をして之を我に送らしむ全軍其死を惜まさるなし
(興味ある部分を抜粋)
常長元和元年を以て帰途に上り墨其西呂宋を経て還る時に六年即ち西暦千六百二十年なり常長等 公に謁し復命して曰く南蛮の俗、脆弱之を征服する朽腐を挫くか如しと此時に當り幕府深く耶蘇教の害を認め天下に命して之を禁せしめ又た大艦巨舶、三檣なる者を造くるを禁す 公か征欧の擧従て止む 公詩あり曰く

邪 法 迷 邦 唱 不 終

欲 征 蛮 國 未 成 効

圖 南 鵬 翼 何 時 奮

久 待 扶 揺 萬 里 風
文禄元年正月五日 公岩出山城を發し黒川に宿す太閤征韓の師に會するなり翌 公諸軍を放て七ツ森に猟す名取、国分、宮城、黒川、深谷、松山の民をして豫しめ来り會して勢子たらしむ軍気颷揚、山嶽を崩し洪河を翻すの慨あり獲る所、鹿三百餘頭 公亦た手ら野猪を銃撃す皆な岩出山留守居の衆、及ひ諸軍に賜ふ七日東に向て發す世に之を『高麗御陣森の御鹿狩』と曰ふ 公時に書を片倉小十郎に寄せて曰く

ことわりのことく、いわて山五日に相たち六日には、くろかは、にて彼山おひの處しし一かう無之候て三ツいてき候を二ツいととめ候一ひきは、てまいにて、うちかかる、ひるいなきところを、うちあて候おのおの、ほうひ是非無候事今日七日當地いつみ、にととまり候明日は四のふ(船岡)へ、うちこす可候云々


七ツ森、文治中、源頼朝東征の師を會して山猟する所と謂ふ

◎参考一 七ツ森今猶ほ「小屋の森」「東の小屋」「西の小屋」「中小屋」等の地名あり之を土人に聞く皆當時、鹿狩陣所の名称て謂ふ
◎参考二 片倉小十郎時に封を亘理に食む 公を待つ久し 公道を丸森に取りて東に向ふ小十郎即ち来り會す
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