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幼名 大膳亮
采禄二千石
宗景長子也
母は白石若狭娘也
職宿老 御一族


一旌旗紋石畳、帷幕紋開き扇十本骨 馬印金地開き扇、
  指小旗打懸けしない白黒地なし横筋小馬印紅地江開き扇十本骨

相馬義胤より之書曰
態啓之候 先般清顕就取合、御当へ為徹書申合候、向後旁以無隔心可申通候、然は旧干戈究而於御当方も可為御苦労候歟、一途御意見之外不可有之候、抑如其唱候者、政宗被移御代之由、目出候、仍而仕折節弓十張進之候、補一義斗候、毎事彼口上申含候
恐々謹言
        霜月七日   平義胤判
  謹上
     浜田大膳亮殿

一天正九年四月朔日会津盛隆之書有り、此書不伝

一去し頃おもハさるに戦いてゝ、伊藤肥前守命を君に奉し日、その程甘釣斎ハ
  常陸使にて、互の憤をやハらけ奉らんため、伊達の陣に日を送る、安積山の
  やまの井の水手向に添て発句をなと各すゝめ給ひしを、あさくハおもハぬことなから、
  事おほく紛てうち過ぬれハ、そのかはりに弔つかうまつれとありけるを、たびたび
  すま(さカ)ひけれとも しゐてもよふさるれハ、さしあたりてのむし(つカ)かしさを
  のかれんとて、後の嘲をわすれ侍りぬ

消かへりをけハあたなる露もなし          (兼如)猪代
草の花つむ、道の朝夕             (浜田伊豆)景隆
虫の音に、あかぬ名残の野を分て        (甘釣齋)玄湖
日の光を、片敷のそて                      長安
真木の戸や 涼しきままに さきさらん      (兼如男)怒仙
軒端の山に あめ過るくれ        (大和田忠清)筑後守
立ならふ、枝葉つたふ 風のおと     志賀左衛門(成清)
やとりさためす 鳥や鳴らん         (志賀右衛門)武清

一政宗君天正十九年六月賀美郡宮崎城主笠原民部御追罸之軍将ヲ命セラレ、
  宮崎江発向ス、城ヨリ出ル敵ヲ逐テ城門ニ至り、鉄砲ヲ放テ攻ムレトモ城堅固ニシテ不屈、
 景隆軍兵ニ下知シテ溝ノ水ヲ落サント自カラ城頭ニ下ル、敵是ヲフセイテ強戦ス、
  先軍破テ景隆深手負、従卒扶テ陣屋ニ帰、六月廿四日行年三十八ニテツヒニ卒ス、
  死骸城ヨリ一里余リ隔、賀美郡柳沢村桧葉野ニ葬、其外戦死之者成田惣八郎、
  松木伊勢、前田河上総、峯左近、伊場野惣八郎、塩森長門 同朋小出小阿弥、
  足軽百人余討死、英雄院殿松月(興徳院雄岳)景隆居士
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車丹波勇猛比なし甞て武者修行と称し我か伊達氏の「城下」に来る浜田伊豆、伊藤肥前等云く彼輩を遇する豈に他家と同ふすへけんやと直に往て丹波を訪ふ伊豆云く『鬚(ひげ)』、『届(とどく)』、『毛長(けなが)』、三毛長の称我等、其の勇名を聞く久し然るに君か面、一鬚を見さるは何そや丹波云く胸より以下、毛あり故に爾云ふならんと伊豆直に脇指を抜き『さあ拝見せん』と詰め寄る丹波即ち衣を披き之を示して臍下に及ぶ果して其言の如し伊豆云く君か『毛長』は之を見るを得たり他の『毛長』を見さるを憾むと一礼して還る伊豆等門を出て大笑して云く丹波とうとう示すへからさるの所を示せりと
天正十五年大崎の戦我か将、留守政景、軍を収めて退く桑折城主黒川月舟、両端を持して決せす動もすれは我を撃たんとす我軍大に艱む浜田伊豆景隆、憤然として曰く萬死を決すれは却て一生を得、是れ古今の常なり今や徒に難を免れんとす敵益々我を窺ふ此時に当て逡巡、恐くは一人も免るゝ能はさらん吾れ大崎の軍を察するに『兵気ゆるし』奴輩、豈に我か敵ならんや若かす接戦返撃、風の枯葉を拂ふか如く勢に乗して兵を退けんにはと諸将皆な之を賛す軍気大に振ふ巳にして月舟其の叔父八森相模の言を納れ敢て迫らす是に於て我軍松山に退く

尚武子曰く景隆『人取橋』に『窪田』に『摺上』に毎戦武を揚けさるなし而して大崎の戦、我れ客兵を以て飢疲交に至り従て之を收む尤も艱む景隆一言、衆をして猛然志を一にせしめ而して月舟の敵意亦た解く景隆の功少なりとせす
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