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文禄元年正月五日 公岩出山城を發し黒川に宿す太閤征韓の師に會するなり翌 公諸軍を放て七ツ森に猟す名取、国分、宮城、黒川、深谷、松山の民をして豫しめ来り會して勢子たらしむ軍気颷揚、山嶽を崩し洪河を翻すの慨あり獲る所、鹿三百餘頭 公亦た手ら野猪を銃撃す皆な岩出山留守居の衆、及ひ諸軍に賜ふ七日東に向て發す世に之を『高麗御陣森の御鹿狩』と曰ふ 公時に書を片倉小十郎に寄せて曰く

ことわりのことく、いわて山五日に相たち六日には、くろかは、にて彼山おひの處しし一かう無之候て三ツいてき候を二ツいととめ候一ひきは、てまいにて、うちかかる、ひるいなきところを、うちあて候おのおの、ほうひ是非無候事今日七日當地いつみ、にととまり候明日は四のふ(船岡)へ、うちこす可候云々


七ツ森、文治中、源頼朝東征の師を會して山猟する所と謂ふ

◎参考一 七ツ森今猶ほ「小屋の森」「東の小屋」「西の小屋」「中小屋」等の地名あり之を土人に聞く皆當時、鹿狩陣所の名称て謂ふ
◎参考二 片倉小十郎時に封を亘理に食む 公を待つ久し 公道を丸森に取りて東に向ふ小十郎即ち来り會す
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天正十八年三月秀吉師を發して東、北條氏を伐つ是より先き徳川家康前田利家等 公に勧めて西上せしむ 公聴かす是に於て 公諸臣に下して議す片倉景綱曰く事後れたりと雖も速に西上秀吉を労問せさるへからすと伊達成実曰く秀吉の東下する已に檄して告くる所なり今にして師に會す已に晩し 公兵を擁する數萬、徒らに渠(かれ)を恐れて碌々■使に甘んすへけんや如かす敵を迎て快戦、衡を天下に争はんにはと老臣多くは之を賛す景綱獨り不可として曰く秀吉人奴より起て天下を掌握す海内其威に敵する者なし我今之に敵す禍立ことに到らん况んや天下の兵其鋒、當り難き諺に比喩あるをや議決せす時に二十六日なり夜、人定て後 公窃に景綱を訪ひ其の寝所に就て議す 公曰く天下の兵其鋒、當り難き比喩は如何んと景綱對て曰く秀吉の武威天下比なし其鋒、當り難き『譬へは夏生する蠅の如し一度にニ三百を撲ち之を防て二度三度に及ふも隨て撲ては隨て来り時到らされは決して盡きす今 公獨力、天下に抗す斯に似たる者あり』と團扇を揮て蠅を撲つの状を爲す 公咸歎即ち 佩ふる所の『大原眞守』の名刀を脱し景綱に賜て曰く是れ我か傅家の寶『立割(たちわり)』と併せて天下の逸品たり聊か以て汝か忠諫に酬ゆと 公是に於て初めて西上決す
片倉小十郎夙に意を人材に注き好んて善士を養ふ故に毎戦奮闘、功を建て名を挙くる者、小十郎か部下の士多きに居る慶長三年太閤薨す小十郎預しめ天下の乱を測り大に兵備を整ふ且つ令して曰く歩士と雖も各々騎馬を飼ふへし力、之を辞する能はさる者にして少の徒は必す鉄砲、鑓、刀を用意すへし曰く町人百姓と雖も馬を飼ふ者は騎士同然たるへし曰く背く者は厳法に処す云々、後ち『関ヶ原』に『大坂』に小十郎か家士、騎して馬上銃を放ち鑓を揮て敵を衝く真田幸村の武を以て猶ほ且其の兵備の盛、士気の猛を歎す蓋し小十郎以来其の養成する所、偶然に非らす
片倉小十郎、名笛を蔵す『汐風』と曰ふ陣中、鎧の脇に挟み餘閑ある毎に甲を降して逍遙盤礴、石を裂き玉を迸らす三軍の士、聞て爽然たらさるなし
天正十六年正月 公、片倉小十郎か宅に臨む「能」あり畢て小十郎等、自ら『獅子躍』を「躍」て 公か覧に供す『御日記』に曰く

『廿一日てんきよし(片倉)小十郎へ御いてなされ候御のふ六はん御さ候みわ、ふなへんけい御たいこ、あそはされ候ていはん(小梁川泥蟠)も大つゝみ(大鼓)まいり御申候一はんに、なには(難波)二はんに、さねもり(實盛)三はんに、みわ(三輪)四はんに、てうりやう(張良)五はんに、八のき(鉢木)六はんに舟へんけい(舟弁慶)御さ候七はくしう(七宮伯耆)いとうひせん(伊藤肥前)小十郎さい々々、おどり被申候二こんめ(二献目)に(公)御ひけ被成候て御てつほう、つゝめ(筒目)を、あそはされ候さまの助(原田左馬助)はくしう(七宮)小十郎しゝおとり(獅子躍)を、おとり被申候其上大御し■御座候』

時に 公新に仙道に勝つ 君臣の意気、飄揚、雲の天半に掛かるか如きを見るなり此時 公年二十有二歳、景綱三十有二歳、原田左馬助二十有四歳、伊藤肥前五十有二歳、風雲際会、気宇宙を呑むの概あり
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