参考にしている逸話などをまとめています。
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福島の戦 公勇臣十人を選ひ殊更に母衣を掛くることを許す十人、後藤孫兵衛信康、黒木肥前宗元、石川彌平実光、氏家新兵衛兼次、川嶋豊前宗泰、一迫伊豆高実、守屋伊豆俊重、遠藤但馬、金森隠岐、今泉丹波、謂ゆる『伊達十騎母衣』なる者、母衣の色、紺、獨り孫兵衛、黄母衣を許さる世に『後藤の黄母衣』又は『黄の後藤』と称す蓋し異數なり
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白石若狭の逝くや家康聞て大に惜み即ち名馬に虎の皮の鞍覆掛けて賜ふ若狭、毎戦健闘、功あり亦た能く難に臨んて節を負ひ身を以て之に当る征韓の役屢々家康の招く所と爲り赴て碁を圍む又た三成の乱あらんとするの前年屢命を以て 公と家康との間に周旋する所あり往々機密に参す尤も家康の重んする所と爲る
尚武子曰く文禄の難 公途に大変を聞く即ち馳せて『薬院』に就て解難の策を■する者亦た若狭なり若狭の如き社稯の臣と謂ふへし
尚武子曰く文禄の難 公途に大変を聞く即ち馳せて『薬院』に就て解難の策を■する者亦た若狭なり若狭の如き社稯の臣と謂ふへし
慶長十九年大坂冬陣の『陣触』十月七日を以て到来す 公時に仙台に在り片倉重綱之を聞き馬を飛はして仙台に到り直ちに登城して 公に謁する時に 公「奥」に入らんとす重綱、尾して廊下に及ひ拜伏、請ふて曰く聞く大坂に事ありと仰き願くは先鋒の栄を賜はらんとをと 公引返へして座に直り感動止み難き躰にて重綱を引寄せて頬に喰ひ付き『其身に先陣させすして誰にかさすへき』と後年伊達氏、正月三日『御野始』の『御先打』片倉氏をして之か任に当らしめ二月初卯の『御鎧餅』獨り片倉家主をして相伴たらしむ蓋し此に初まる者と謂ふ
尚武子曰く君臣際會の盛状、千載の下、人をして爽然自ら失せしむ
尚武子曰く君臣際會の盛状、千載の下、人をして爽然自ら失せしむ
慶長三年 公伏見に在り一夜故あり鑓よ馬よと騒くとあり家臣 公か邸に集まる者波の如し時に茂庭石見 公か譴に触れ出てす警を聞き直に走せて 公か邸に赴き『御次』に控へ壁を隔てゝせき拂す竹田法印、今井宗薫亦た来り侍す 公宗薫等に謂て曰く我家、々臣多しと雖も事に臨んて難を解く韘を掛けて癢を掻くか如し獨り石見に至りては『韘なしに掻くか如し今夜も騒動に就て駆けつきたる様なり』と後、十數日にして宗薫等周旋、石見赦に逢ふ
公夙に會津に志あり天正十三年五月初めて兵を出して之を征す綫に檜原を披く六月塞を檜原に築き後藤孫兵衛信康をして之を守らしむ令を下して濫りに兵の塞外に出つるを禁し且つ孫兵衛をして『仕置』を司らしむ孫兵衛、檜原に『城番』たると五年 公屢々書を贈り使を遣して警戒を厳にせしむ曰く晝夜用心すへし曰く用事あらは日夜の嫌なく急使を発して報告すへし曰く万一、倦厭逃亡する者もあらは處するに厳刑を以てせよ曰く『田村なとにては先年二本松(畠山義継)塩松(大内備前)敵なりし砌は洞中(闔藩)の輩、打績、五六箇年警固せしとあり』云々天正十七年會津 公帰す孫兵衛乃ち任を全ふして還る蓋し檜原は米沢の背後にして會津に入るの関門たり故に孫兵衛をして守らしむるなり孫兵衛深沈にし膽量あり忠誠比なし屢々 公か爲めら守城の任を盡くし未た甞て失はす 公か信頼する所たり
尚武子曰く檜原の地勢、攻勢を以て言へは會津の敵を監視して進入の梯階と爲すへく守勢を以て言へは 公四方を奔走す米沢の背後を捍衛すへし是れ 公孫兵衛をして檜原を守らしめし所以なり而して 公遂に會津を略す孫兵衛赫々の功なしと雖も背面防御の功亦た大なりと謂ふへし
尚武子曰く檜原の地勢、攻勢を以て言へは會津の敵を監視して進入の梯階と爲すへく守勢を以て言へは 公四方を奔走す米沢の背後を捍衛すへし是れ 公孫兵衛をして檜原を守らしめし所以なり而して 公遂に會津を略す孫兵衛赫々の功なしと雖も背面防御の功亦た大なりと謂ふへし
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