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原田宗時、姓は藤原、先祖始て太祖念西公に仕へ累世の宿老なり、世臣家譜畧小字は虎駒、後ち左馬助と称す、養父原田大蔵宗政、天正十年四月相馬の役に戦死し、その姪を以て嗣となす、即ち虎駒なり、性山公偏諱を賜ひ宗時と曰ふ、性剛直にして勇武絶倫、年僅に十八軍事を掌り、所々の役に功あり、毎に後藤信康と先後を争ふ、宗時毎に先んす、十九年宮崎の役信康夜半に出て、敵城本丸の石壁に附く、宗時は既に来り居て信康に今来るやと云ふ、既にして敵門を開き突出し我か軍敗る、時に信康は石壁に附き、宗時は門柱に據り止る、敵軍を収め門を閉つ、宗時士卒を指揮し門を破る、諸軍悉く攻入り、遂に落城す、後藤信康は老功の人なり宗時輕侮せらるを憤り、相撃て死せんとす、信康の大量に服し、遂に親交すと云ふ、文禄二年貞山公に征韓の役に従ふ、宗時大刀丈餘なるを背に負ひ馬に跨り、金鎖を以て鞍上に約す、人其武装を稱す、釜山浦に於て病に罹り、帰りて對馬に客死す、年二十九、舊臣傅記仙臺史傅病中信康に贈る詩に云、老無恙也我猶全、雁使飛来信息傳、枕路兼通西海上、夢魂定可到君邊、仙臺風藻○仙臺史料に轉結二句を載せて客枕揺々西海上 夢魂夜々到君邊となす公其訃を聞き、和歌六首を詠して此を弔す、舊臣傅記仙臺史傅其孫を宗輔甲斐と称す、萬治の初め国老となり加禄あり、百貫文を領す、寛文十一年三月不義に坐し家絶つ、舊臣傅記
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