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原田左馬助 公に朝鮮に従ふ帰途、病んで対馬に死す時に二十有九 公哀悼措かす和歌を詠して之を吊ふ毎首冠するに『六字名號』を以てす歌に曰く

  夏衣きつゝなれにし身なれとも別るゝ秋のほとそものうき
  虫の音は涙もよほすゆふまくれさひしき床のをきふしもうし
  あはれけに思ふにつれす世のならひなれにし友の別もそする
  見るからに猶あはれそふ筆の跡今より後の形見ならまし
  誰とても終にはゆかん道なれとさきたつ人の身そ哀れなる
  吹はらふ嵐にもろき萩かはなたれしも今やおしまさらめや

左馬助少ふして嶄然頭角を露はす毎戦功あり尤も 公か愛する所たり
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慶長十三年七月十六日盂蘭盆の日 公命して火を仙台城門の傍に焚かしむ蓋し戦死将卒の霊を慰む者と謂ふ以後、修めて以て國俗と爲す今に至るまて仙台陰暦七月十六日、家々の門前、盛に火を焚く者、公か遺習たり
佐沼城陥る中島伊勢、裏木戸に待伏して賊を斬る三十餘人 公に献す 公之を賞す偶原田左馬助来る伊勢に謂て曰く斯場合には塀乗りか木戸破りをこそ手柄と謂ふなれ雑人原の首取りなとは容易のこと誰にも能くすへしと伊勢対て曰く戦場にては首取りたるか手柄なり其方は縦ひ雑人の首なりとも取りたるかと大に争ふ 公孤か前をも憚らす相争ふは無禮なりとて之を叱す浅野六右衛門正勝座に在り調停事なきを得たり

尚武子曰く塀乗り木戸破りも功なり首取りも功なり然して 公太閤に対するの首尾より論すれは急に城を披(←?)かさるへからす故に左馬助か言を至當とす而して 公の賞する所を争ふ是れ左馬助に取らさる所 公の叱する此に在り
又曰く左馬助伊勢の争ふ所人をして一讀爽然たらしむ此の気慨あり三軍死せす
中津川新四郎、後藤孫兵衛と隙あり新四郎一日憤然、孫兵衛と相刺して死せんとす孫兵衛の宅を訪ふ孫兵衛之を室に延き対偶従容たり新四郎云く積日の無禮請ふ與に倶死せんと即ち爐の湯釜を執て孫兵衛の面に投け付け直に起て孫兵衛に騎し將さに之を刺さんとす孫兵衛組敷れなから下よりしつかと新四郎か脇指の柄を抑へ静に小姓を呼ふ小姓等大に驚き新四郎を斬んとす孫兵衛疾言之を止めて曰く斬る勿れ々々此は殺すへき者に非らす唯た捕へよと小姓等其言の如くす孫兵衛起きあかり神色自若として新四郎に謂て曰く短気も甚し新四郎怒て曰く汝伊達家の大身にて有り乍ら某か如き者に辱しめられ猶且つ生を貪らんとす醜も亦た甚し汝か如き生くるも益なし吾れ汝か敵として不足なし謂ふ死せんと新四郎、夜叉の勢にて復た孫兵衛に飛ひ掛る孫兵衛是に於て眼を瞋らし諭して曰く汝公闘の為めに死するを為さす却て私憤を以て身を殺さんとす狂も亦た甚し新四郎曰く汝湯にて面を焼かれ何の顔ありて人に対せんやと孫兵衛曰く吾此を堪忍するも 君に不忠とならす我か貴重の生命固より 君に捧く豈に汝、蟲介の輩と共に死すへけんやと頑として應せす新四郎、遂に其量に服し献酬義を結ふ新四郎 毎戦健闘、死する時年九十有餘屢子弟の為めに之を説て奬戒する所ありと云ふ
後藤孫兵衛、原田左馬助、戦に臨んて往々先を争ふ佐沼の戦、孫兵衛何時も左馬助に先んせられるヽを憤り人の未た攻めさるを窺ひ夜を冒して単身本丸の石垣を攀つ思らく此度こそ左馬助に先んつるを得たりと時に暗中人あり『左馬助此に在り孫兵衛只今か』と已にして敵門を開て突出、殊死して戦ふ我軍少しく郤く咄嗟の際孫兵衛は石垣に取付き左馬助は城門の柱に身を寄せ共に敵の退くに乗して反撃大に之を破る城兵退て門を閉つ左馬助令を下して諸門を打破せしむ城遂に陥る孫兵衛眼下と腿と二箇所に銃創を負ふ勇戦屈せす
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