参考にしている逸話などをまとめています。
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貞女。政宗公の功臣原田左馬之介宗時、征韓の役對馬にて病没したる際、夫人は年僅かに廿四、直に削髪して尼となり、懇に夫の菩提を弔ひ承應三年四月十九日没す、享年八十四、柴田郡川崎村富澤常光寺に葬る。
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名臣、小字を虎駒、後ち左馬之助と称し、伊達氏累世の宿老家たり、養父原田大蔵宗政、相馬の役に戦死して嗣なく、弟山嶺源一郎の子を養ひて嗣となす、即ち虎駒なり、輝宗公偏諱を賜ひて宗時と曰ふ、性剛直にして勇武絶倫、苟も人に屈下せず、年十八にして軍事を司り、屢々戦功あり、甞て伊達氏の老将後藤信康を怨み相撃ちて死せんとせしが、遂に信康の義勇大量に畏服し、二人是より相親善す、文禄二年政宗公に従ひて征韓の役に赴く、宗時背に大刀丈餘なるを負ひて駿馬に跨り、金鎖を以て之を鞍上に約す、衆其武装の偉を称せしと云ふ、已にして朝鮮に入り釜山浦に於て病に罹り對馬に帰港し、終に茲に客死す、時に文禄二年七月、年僅に二十九、公其訃を聞き、爲に国風六首を詠じて之を弔す、時人之を栄とせり。(仙臺人物史)
原田宗時、姓は藤原、先祖始て太祖念西公に仕へ累世の宿老なり、世臣家譜畧小字は虎駒、後ち左馬助と称す、養父原田大蔵宗政、天正十年四月相馬の役に戦死し、その姪を以て嗣となす、即ち虎駒なり、性山公偏諱を賜ひ宗時と曰ふ、性剛直にして勇武絶倫、年僅に十八軍事を掌り、所々の役に功あり、毎に後藤信康と先後を争ふ、宗時毎に先んす、十九年宮崎の役信康夜半に出て、敵城本丸の石壁に附く、宗時は既に来り居て信康に今来るやと云ふ、既にして敵門を開き突出し我か軍敗る、時に信康は石壁に附き、宗時は門柱に據り止る、敵軍を収め門を閉つ、宗時士卒を指揮し門を破る、諸軍悉く攻入り、遂に落城す、後藤信康は老功の人なり宗時輕侮せらるを憤り、相撃て死せんとす、信康の大量に服し、遂に親交すと云ふ、文禄二年貞山公に征韓の役に従ふ、宗時大刀丈餘なるを背に負ひ馬に跨り、金鎖を以て鞍上に約す、人其武装を稱す、釜山浦に於て病に罹り、帰りて對馬に客死す、年二十九、舊臣傅記仙臺史傅病中信康に贈る詩に云、老無恙也我猶全、雁使飛来信息傳、枕路兼通西海上、夢魂定可到君邊、仙臺風藻○仙臺史料に轉結二句を載せて客枕揺々西海上 夢魂夜々到君邊となす公其訃を聞き、和歌六首を詠して此を弔す、舊臣傅記仙臺史傅其孫を宗輔甲斐と称す、萬治の初め国老となり加禄あり、百貫文を領す、寛文十一年三月不義に坐し家絶つ、舊臣傅記
或時木綿京より到来す謂ゆる京染なる者人の未た見さる所美甚し 公とりて広間の士に示す皆驚き称せさるなし偶遠藤山城入り来る人の群るを見て何事そと問ふしかしかといへは山城つかつかと進み寄り木綿を引巻きて巳か家へと遣はし『苟くも将に将たる者、小事の爲めに心を奪はるへきに非す』と云て勃然帰り去る 公左右を顧みて曰く山城の言動理なりと
片倉小十郎夙に意を人材に注き好んて善士を養ふ故に毎戦奮闘、功を建て名を挙くる者、小十郎か部下の士多きに居る慶長三年太閤薨す小十郎預しめ天下の乱を測り大に兵備を整ふ且つ令して曰く歩士と雖も各々騎馬を飼ふへし力、之を辞する能はさる者にして少の徒は必す鉄砲、鑓、刀を用意すへし曰く町人百姓と雖も馬を飼ふ者は騎士同然たるへし曰く背く者は厳法に処す云々、後ち『関ヶ原』に『大坂』に小十郎か家士、騎して馬上銃を放ち鑓を揮て敵を衝く真田幸村の武を以て猶ほ且其の兵備の盛、士気の猛を歎す蓋し小十郎以来其の養成する所、偶然に非らす
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