参考にしている逸話などをまとめています。
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公の西上秀吉を労問するに決するや成実憂ふると甚し 公を見て慨然謂て曰く労問可なり然るに是れ社稯の大事、且つ秀吉は人傑恐くは人の意表に出つ 公弁明宜きを得す或は大禍を蒙ることあらん臣謂ふ秀吉に擬し責問 公一々之に答ふるをは得は臣亦た労問を停めすと 公笑て曰く諾と成実問ふ所 公應答流るるか如し成実欣然として曰く可なり然るに 公千金の身を以て不測に入る萬一を計らさるへからす若し 公にして死す誰か公か爲めに『吊合戦』を催し猿奴の首を 公か墓前に掛くる者あらんや 公の往く可なり大兵を擁し精英の士を拔て隨ふは不可なりと 公亦た欣然として之を許す 公發するに及ひ即ち成実をして會津を守らしむ
尚武子曰く成実問を 公に進む大事に處して苟くもせす用意周到、社稷を憂ふる深しと謂ふへし
又曰く『吊合戦』の用意、何等の遠慮、成実沉重、大臣の風あり
又曰く最後の大決心成実の如くにて留守の大任を負ふを得
又曰く大兵を擁し精英の士を拔て隨ふは不可なり成実人の言ひ難きを言ふ骨硬の臣と謂ふへし
又曰く天正十八年 公小田原に赴く時に 公年二十有四、景綱三十有四、成実二十有三、皆年少気鋭、既に己に乾坤を斡旋するの概あり盛なりと謂ふへし
◎参考 公又た發するに臨み柴田但馬宗義、石母田左衛門宗頼、大條尾張宗直をして二本松を守らしむ
尚武子曰く成実問を 公に進む大事に處して苟くもせす用意周到、社稷を憂ふる深しと謂ふへし
又曰く『吊合戦』の用意、何等の遠慮、成実沉重、大臣の風あり
又曰く最後の大決心成実の如くにて留守の大任を負ふを得
又曰く大兵を擁し精英の士を拔て隨ふは不可なり成実人の言ひ難きを言ふ骨硬の臣と謂ふへし
又曰く天正十八年 公小田原に赴く時に 公年二十有四、景綱三十有四、成実二十有三、皆年少気鋭、既に己に乾坤を斡旋するの概あり盛なりと謂ふへし
◎参考 公又た發するに臨み柴田但馬宗義、石母田左衛門宗頼、大條尾張宗直をして二本松を守らしむ
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天正十八年三月秀吉師を發して東、北條氏を伐つ是より先き徳川家康前田利家等 公に勧めて西上せしむ 公聴かす是に於て 公諸臣に下して議す片倉景綱曰く事後れたりと雖も速に西上秀吉を労問せさるへからすと伊達成実曰く秀吉の東下する已に檄して告くる所なり今にして師に會す已に晩し 公兵を擁する數萬、徒らに渠(かれ)を恐れて碌々■使に甘んすへけんや如かす敵を迎て快戦、衡を天下に争はんにはと老臣多くは之を賛す景綱獨り不可として曰く秀吉人奴より起て天下を掌握す海内其威に敵する者なし我今之に敵す禍立ことに到らん况んや天下の兵其鋒、當り難き諺に比喩あるをや議決せす時に二十六日なり夜、人定て後 公窃に景綱を訪ひ其の寝所に就て議す 公曰く天下の兵其鋒、當り難き比喩は如何んと景綱對て曰く秀吉の武威天下比なし其鋒、當り難き『譬へは夏生する蠅の如し一度にニ三百を撲ち之を防て二度三度に及ふも隨て撲ては隨て来り時到らされは決して盡きす今 公獨力、天下に抗す斯に似たる者あり』と團扇を揮て蠅を撲つの状を爲す 公咸歎即ち 佩ふる所の『大原眞守』の名刀を脱し景綱に賜て曰く是れ我か傅家の寶『立割(たちわり)』と併せて天下の逸品たり聊か以て汝か忠諫に酬ゆと 公是に於て初めて西上決す
幼名虎駒。後改左馬助。本姓山嶺氏。爲伯父原田大蔵宗政嗣。事貞山公。屢有戦功。朝鮮之役。佩長刀従焉。観者偉之。曾與後藤信康有隙。後和解結歓。世以廉藺称之。朝鮮凱旋途中客死于對馬。時文禄二年癸己七月。年僅二十九。原田氏世宿老。至孫甲斐宗輔。有罪其家断絶。
寄 後 藤 信 康
老 無 恙 也 我 猶 全。
雁 使 飛 来 消 息 傅。
枕 路 兼 通 西 海 上。
夢 魂 定 可 到 君 邊。
老 無 恙 也 我 猶 全。
雁 使 飛 来 消 息 傅。
枕 路 兼 通 西 海 上。
夢 魂 定 可 到 君 邊。
近々大唐よりあつかい申候て、無事ニ成候。
一、渡海以来ニ度々申入候。
相とヽき候哉。御床しく候。
此度之書礼相とヽき
申候。戦床之臥候而、再三
見申候。誠一封之書ハ
寄数行泣候と申候事、
今思合候。
一、万事機遣共御尽し候べく候。
常之事、不驚候へ共、
惆悵而独悲のミゝ。
一、眼病之由、にかゝ敷候。
病入見るやうにて候。
一、拙ハ去年ハ不断相煩候が、
高麗へ渡候よりハ不煩候(以下不明)。
一、明日赤国へ動申候。万事
機遣心懸之事、
筆ニもおよひ申ますく、申度事ハ
山雲海月よりも余有
候へ共、ふミハ不叶義共多
候間、早々、我ふミなからなつかしく候。
恐々謹言
原左馬助
六月十二日
後藤孫兵へ殿 まいる
以上。
一、渡海以来ニ度々申入候。
相とヽき候哉。御床しく候。
此度之書礼相とヽき
申候。戦床之臥候而、再三
見申候。誠一封之書ハ
寄数行泣候と申候事、
今思合候。
一、万事機遣共御尽し候べく候。
常之事、不驚候へ共、
惆悵而独悲のミゝ。
一、眼病之由、にかゝ敷候。
病入見るやうにて候。
一、拙ハ去年ハ不断相煩候が、
高麗へ渡候よりハ不煩候(以下不明)。
一、明日赤国へ動申候。万事
機遣心懸之事、
筆ニもおよひ申ますく、申度事ハ
山雲海月よりも余有
候へ共、ふミハ不叶義共多
候間、早々、我ふミなからなつかしく候。
恐々謹言
原左馬助
六月十二日
後藤孫兵へ殿 まいる
以上。
勇士。原田左馬助の臣、天正十三年五月二日會津關柴の役、宗時挺身槍を揮ひて進む、勘八同僚蘆立傳三郎と共に馬を扣へ諫めて曰く、敵は烏合の衆のみ、何ぞ君を煩すに足らんや、之を拒ぐに吾等二人にして足る、君速かに去れと、二人大に呼んで奮激す、宗時間を得て走り關の驛に至る、勘八刀尖に敵首二級を貫きて帰り献ず、宗時傳三郎を問ふ、對へて曰く傳三郎奮闘十餘人を斃して戦死すと、政宗公聞きて二人の勇を称し、勘八に佩刀を賜ひ、厚く傳三郎の後を存恤せしむ。
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