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参考にしている逸話などをまとめています。
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天正十五年大崎の戦我か将、留守政景、軍を収めて退く桑折城主黒川月舟、両端を持して決せす動もすれは我を撃たんとす我軍大に艱む浜田伊豆景隆、憤然として曰く萬死を決すれは却て一生を得、是れ古今の常なり今や徒に難を免れんとす敵益々我を窺ふ此時に当て逡巡、恐くは一人も免るゝ能はさらん吾れ大崎の軍を察するに『兵気ゆるし』奴輩、豈に我か敵ならんや若かす接戦返撃、風の枯葉を拂ふか如く勢に乗して兵を退けんにはと諸将皆な之を賛す軍気大に振ふ巳にして月舟其の叔父八森相模の言を納れ敢て迫らす是に於て我軍松山に退く

尚武子曰く景隆『人取橋』に『窪田』に『摺上』に毎戦武を揚けさるなし而して大崎の戦、我れ客兵を以て飢疲交に至り従て之を收む尤も艱む景隆一言、衆をして猛然志を一にせしめ而して月舟の敵意亦た解く景隆の功少なりとせす
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文禄四年夏太閤鹵薄を備へて伏見の津田を過く二士あり白衣を着け腰刀を投し、づかづかと進み寄りて目安状を上る太閤受けて披見、大に悟る所あり蓋し 公か家臣湯目民部景康中島伊勢宗求 公か遭難を憂ひ太閤を要して 公か寃を訴ふるなり景康宗求、豫しめ決する所あり匕首を懐にす意、事若し成らすんは太閤を刺して死するに在り後ち 公其の忠烈を壮とし景康をして姓を津田と改めしむ宗求亦た誠実、事に当て死を辞せす尤も 公か重んする所と爲る
※長いので抜粋

太刀大小みな金熨斗付、遠藤文七郎宗信二十歳原田左馬助宗時二十七歳後藤孫兵衛信康湯目民部景康石母田左衛門景頼等七人、特に大刀を佩ふ長さ各丈有餘、小尻の下からさるよう刀の中ころに金物を付け金の鎖を以て之を肩に負ふ

◎参考一  此役従ふ所の 公か家臣隊将には石川昭光、伊達藤五郎成実、留守上野介政景、桑折摂津守政長、石母田左衛門景頼、大條尾張宗直、泉田■岐、大内備前定綱、小梁川盛宗入道泥蟠齋、白石若狭宗實、片倉小十郎景綱、高野壱岐親兼、大條薩摩實賴、山岡志摩重長、湯目民部景康、等あり小姓組には原田左馬助宗時、遠藤文七郎宗信あり手明衆すへて二十人、中に支倉六右衛門常長あり皆な一世の傑物たり

◎参考二  齋藤子徳著はす所の「藩祖実録」等の書、大刀を以て木刀と爲すもの十に八九、然るに大刀、現に在り原田左馬助津田民部の物、伊達氏に蔵す遠藤文七郎の物、舊釆地川口に蔵す後藤孫兵衛の物、塩竈神社に納む石母田大膳の物は舊釆地高清水に在り葢し大刀、本と伊達氏の武庫に秘す近世 楽山公に至りて始めて当時従軍の諸家に賜ふ当時文士親しく之を観るを得す遂に 公か壮志の一半を殺く歓すへし

◎参考三  甞て民部佩ふる所の大刀を観る中身に打疵あり葢し実戦に用ゆる者、我邦古来武を以て冠たり勇士往々自ら壮として大刀を用ゆ時に或は鐵棒に代ふる者あり敢て珍とするに足らす

◎参考四  大刀、濃州物あり備前物あり銘あるもあり無きもあり銘に關の兼常なる者あり兼常 公を距る遠し豫しめ人を派し京師に買はしむる所と云ふ
征韓の役諸大名閑に乗して「ためしきり」す一韓人あり大さ牛の如し皆斬りあます 公乃ち名刀『景秀』を出し此にてためすへしと云ふ加藤清正、浅野長政兼て 公と仲悪かりけれは何れも手にあませし代物なれは無益なりと断る 公清正に向ていや我か小姓の刀なり切り見て玉へと云ふ清正も斟酌の様子にて遂に大男を斬る一の胴を断て土壇の下に打込むと五六寸、流石の清正も膽を消しなかなかたゝは抜けましとて鍬もて堀り出す観る者驚かさるなし
後藤孫兵衛、純忠にして偉度あり 公か愛する所たり 陽徳院夫人亦た之を重んす 夫人甞て白綾の裲襠を賜ふ裲襠、孫兵衛か子孫、猶ほ之を蔵す狩野風の墨畫にて近江八景を畫ける者、高尚謂はん方なし按するに孫兵衛 公か爲めに檜原を守りて會津の敵を監視する前後五年 公數々書を裁して之を問ふ裲襠賜て以て之か労を慰する者非か
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